「あさみの似顔絵」の原点は、山口紀行師匠の手ほどきを受けたこと。似顔絵の描き方だけでなく、人の表情の多様さや顔に現れる生き様をとらえることを教えてもらったな。
卒業した後も毎年のように忘年会をして、山口門下生が集まるのだけど、昨年末はコロナもあり集まることができなかった。
70歳を超えてなお現役。
あちこちの公民館やカルチャーセンターで似顔絵を教えている。よくしゃべる、明るく陽気な先生です。絵を描く楽しさを語らせたら、延々とおしゃべりが止まらない。
「人は、誰かとたわいもないおしゃべりをしないと、すぐにつまらない人間になってしまうんだ」と言って、お年寄りを集めては「しゃべり場」を開く。またボランティアで紙芝居の制作グループにも所属している。
似顔絵を描く間も、お客さんを楽しませる話術が似顔絵師には必要。こんなことも、山口先生から学んだと思う。お客さんは、似顔絵だけでなく、描いている間の楽しい時間を求めているんだと。
いやなことを忘れるために没頭した似顔絵
前回のストーリーでも書いたけど、2011年に日本に帰国した時、私は本当にメンタルがやばい状態だったと思う。極度に落ち込んだりはしないけど、短所だらけの自分に嫌気がさしていたし、結婚を継続しない選択をした自分を追い詰めていた。安定剤みたいなのがないと、悪夢にうなされる毎日だった。
だけど、両親はいっさい私を責めなかった。また、日本でやり直せばいいじゃない。まだ若いんだから。とにかく働いて、日々を忙しくしなさい。そんな感じだった。
ハローワークで仕事を探し、職業訓練校に入ったことは前回書いたのだけど、それと同時平行して離婚の手続きを進めていた。相手は頑として離婚を受け入れようとしなかったから、本当に離婚が成立するまでに2年半かかった。
とっても愛した人と、ののしりあったり責任を押し付けあう2年半だった。気が狂いそうな日もあった。そんなある日、ひょんなきっかけで山口先生の似顔絵教室と出会った。
何か、パズルのピースがはまったみたいに、似顔絵は私の心にぴったりとはまり込んだ。ただただ、おもしろかった。人の顔を似せて描く。簡単なようで簡単じゃない。だって、人の顔は1秒だって同じ表情をしていない。誰が見ても「わ!似てるね!」っていうのが描けると、おもしろくて嬉しくて、もっともっと描きたくなった。
とにかく描いている間は現実逃避できたし、それを見せたときに相手が笑うと嫌な感情が吹っ飛んで、嬉しくてしかたない感情がわいてきた。
2012年、似顔絵教室統廃合とともにデビュー
それまでいろいろなところで精力的に教室を開いていた山口先生だったが、教室数を減らすことにしたと連絡があった。心のよりどころだった似顔絵教室。これからどうしよう…?ちょうど短期の仕事も決まったりしてスケジュールが合わなくなり、継続して通えそうな教室はなかった。
「似顔絵描きたいなら、イベントに出店してみたら?あさみちゃんなら、大丈夫じゃない?」
通っていたサロンのセラピストさんが声をかけてくれた。聞けば、その人は定期的に美容系のママ向けイベントを開催していて、そこで似顔絵を出店したらどうかと声をかけてくれたのだ。
それまでまったく「似顔絵でお金をもらう」という発想がなかった私。
「似顔絵教室でちょっとかじったくらいでお店を出すなんて」
「ヘタクソって笑われたらどうしよう」
「似てないって、苦情がきたらどうしよう」
そんな思いが脳内を駆け巡ったのですが、同時に
「やった!似顔絵が描ける💛💛💛」
写真や映像からの練習似顔絵でなく、目の前の人を描く即興似顔絵。
ムクムクと湧き上がる高揚感。ドキドキとワクワク。やってみたいという衝動。
出店料も格安だったので、とりあえず出店料分売り上げることを目標に、初めの第一歩を踏み出すことにした。
これが、2012年10月13日でした。
師匠のことば
イベントで似顔絵屋さんをやることにしたと、山口先生に話した時、先生がすごくビックリされたのを覚えている。
似顔絵教室を開いていても、家族や芸能人を描いて満足する人が多くて、外に出て店を出すところまで行く人はまれなんだと言われた。
何年もかけて育てて、ボランティア活動から徐々に経験を積んで、早く上手に描ける技術を身に着けて、何度も場慣れさせて、それでも「似顔絵師」への道にたどり着く人はなかなかいない。僕はそんな人を育てたくて教室を開いているのに、あんたはちょこっと通っただけで、勢いあるなぁ!がんばりんさい!と。
師匠、あれから気づいたら8年経ちました。
いまだに似顔絵の道は奥が深くて、ゴールは全然見えませんが、あの頃と変わらず楽しくて幸せです。師匠のおかげ様です。ありがとうございました。